思考の寄り道:答えのない航海図
COLUMN効率や正解ばかりを求める今の時代に、あえて「本から広がる、一見無駄に見えるけれど面白い雑学や視点」を楽しむコラム。
2026.05.13
青」という名前がなかった時代
想像してみてください。空はこんなに突き抜けるほど青く、海はどこまでも深い蒼を湛えているのに、もし世界に「青」という言葉がなかったら。
19世紀のイギリスの政治家であり、古典学者でもあったウィリアム・グラッドストンは、ホメロスの『オデュッセイア』を読み耽っているときに、ある奇妙なことに気づきました。その壮大な物語の中で、海は「ワイン色の(wine-looking)」と表現され、羊は「紫」、鉄は「紫」や「灰色」と表現されています。しかし、どこをどう探しても「青」という言葉が出てこないのです。
効率を重視する現代の読み方なら、「昔の人の色の捉え方は大雑把だったんだな」と、一行の要約で片付けてしまうかもしれません。しかし、ここからが「思考の寄り道」の始まりです。
実は、人類の言語の歴史において「青」という言葉が登場するのは、驚くほど最近のことだと言われています。多くの文明で、まず「白」と「黒」が生まれ、次に「赤(血や火の色)」が現れ、その次に「黄色」や「緑」……。最後にようやく「青」が認識されるようになります。
なぜか? それは、自然界において「安定した青」を作り出すことが極めて困難だったからかもしれません。空や海は青く見えますが、それを手に取ることはできません。触れることのできる「青い物質」が身近になかったため、人間にとって「青」を概念として切り出す必要がなかったのです。
この事実を知った後で、もう一度空を見上げてみてください。私たちが当たり前のように「青いね」と口にするその一言は、人類が何千年もかけて獲得した、極めて新しいレンズを通して見ている景色なのです。そう思うと、ただの通勤路で見上げる空が、少しだけ神秘的な、昨日とは違う色に見えてきませんか?
「役に立たない」という名の救い
私たちは、本を読む際にも「この本から何を得られるか?」「どう仕事に活かせるか?」というコストパフォーマンスを意識してしまいがちです。しかし、企画プロデューサーとして多くのコンテンツを見てきた私が断言できるのは、「本当に魅力的な人」というのは、例外なく「面白い無駄」をたくさん持っているということです。
例えば、18世紀のフランスの作家、グザヴィエ・ド・メーストルという人物がいます。彼は決闘の罪で42日間の謹慎処分を受けた際、『私の部屋をめぐる夜の旅』という本を書きました。窓の外に出られない彼は、自分の部屋の中にある家具や置物を、まるで未知の惑星を探索するかのように詳細に、そしてユーモラスに描写したのです。
「椅子に座るという行為は、実は偉大な休息の儀式である」
「一足の古い靴が、どれほど多くの旅の記憶を語ってくれることか」
効率を求める社会から見れば、ただの「部屋での暇つぶし」です。しかし、彼の視点は、閉じ込められた空間の中に無限の宇宙を見出しました。これは、正解のない航海図を持って、自分自身の内面を旅する行為に他なりません。
栞を挟む、その一瞬の余白
本を読んでいる最中、ふと視線を上げて、窓の外を眺める。
あるいは、読み終わった後に、そのまま本を閉じずに膝の上に置いたまま、ぼんやりと天井を見つめる。
この「栞を挟んだ後の数分間」こそが、読書における最も豊かな時間だと私は思います。そこでは、著者の言葉と、あなた自身の経験が化学反応を起こしています。
• 「あの時、母が言っていた言葉は、こういう意味だったのかもしれない」
• 「あの旅先で見つけた石ころは、もしかしたら数千年前の記憶を閉じ込めていたのかも」
これらは、テストに出るわけでも、年収を上げるノウハウでもありません。しかし、あなたの人生という物語に、深い「陰影」を与えてくれる大切な要素です。
